5 出会い・結婚


 「彼との出会いはSAPがらみですよ」と、奥様が話されます。上杉氏は相当な照れ屋で、結婚のことはおろか、家族のこともなかなか話してくださらない。そこで、家族のことは奥様にお聞きすることにしました。
上杉氏と奥様の出会いは昭和39年、当時県の営農指導課の中にあった教育係にSAPが事務局を置いたことに始まります。営農指導課におられた奥様は、SAPの事務局員として課に入ってきた上杉氏を仕事でいろいろと世話をしたり、また話し合いをしたりしているうちに気持ちが通じ合い、結婚へ至ったのだそうです。
上杉氏は28歳で県議会議員にトップ当選しましたが、その時には1歳の子供が一人と、奥様のおなかの中にもう一人という状況でした。大変な状態でしたが、奥様は立派に政治家の妻としての役割を果たし、上杉氏はそんな奥様を全面的に信頼して家庭のことを全て一任しています。照れ屋な上杉氏は口にこそ出さないけれど、奥様に感謝の気持ちをずっと持ち続けていました。



長い浪人時代



県議会議員二期を経て、上杉氏は、衆議院議員選挙に挑戦しています。青年団・SAPでの実践活動を通じて、彼の政策理念の原点となった「国土を守り、国民生活を支えている農山村には、国と国民みんなが報いるべきである」という主張は、国政の場で言わなければならないと感じたのです。
しかし、結果は落選。次の選挙にも挑戦してまた失敗。長く苦しい浪人生活でした。
上杉氏は、彼の著書でこう書いています。「長い浪人生活の中で、ともすれば挫折しそうな私を多くの人々が支えてくれた。人の情けを本当に知ったのもこの時期である。おかげで、私は何のために国政を志しているのかという目標を失わなかった。国会入りを果たしたとき、命がけで取り組むことが、これら人の情けに対する恩返しだと思った。恩義ある人々の向こうには、日本の農山村に住む人々の姿が、日々汗を流して働く人々の姿が二重写しになって見えた」
この苦難の浪人生活は、上杉氏を一回りも二回りも大きく育てたのです。三つの家訓を基礎に築き上げられてきた彼の人格は、この時代に政治家として、さらに厚みと幅が加わったと思います。政治家の財産は「人脈だ」という彼の哲学の原点も、この時代にあったのです。彼の確固たる政治哲学も、この時代に磨きがかかったのだと思います。

 「野にありて 知る人の情け 人の恩 求むる道は 臥薪嘗胆」
最初に落選したとき詠んだ上杉氏の素直な心情の歌である。

(コピーライター 北村多喜子 平成14年12月)