3 溢れる探究心・行動力の青年時代


 この頃から、上杉少年の探求心は小さな村から飛び出して、世界へと向かっていました。
中学校の先生は、成績の良かった上杉少年に普通高校、大学の道を勧めましたが、大学に行ったら郷里に帰ってこないといって家の人たちは反対しました。大学を出ても農業はできるという先生の再三の説得がありましたが、どうしても上杉少年を手放したくない家族は、彼を高鍋農業高校に進学させました。
国会議員になった今でも、「私は根っからの農民です」と言う上杉氏の農民人生は、こんないきさつがあってスタートしました。農業高校で学び、家で農業を実践しながら農業後継者としての技術、知識を積み重ねていましたが、この時期、上杉少年の農業に対しての思い入れはだんだん強くなり、自分なりの考えを確立しつつありました。
それはじかに農作業に携わっている者だけが知る苦しみ、汗、その中で感じる楽しみと誇り、農林業の意義といったようなものでした。
上杉氏は高校を卒業すると東京農業大学の通信教育を受けていましたが、農家の跡継ぎとして働きながら青年団活動・SAP活動も熱心に行っていました。
でも、いつも何かが足りないというもどかしさを感じていたそうです。彼の心の中には常に疑問がありました。それは何か。
その一つが生産物の価格の問題です。
農林業者は、商工業者のように自由に価格の設定ができない。商工業製品はコストを計算して、生産者が価格を決めるが、農産物は全くの市場原理で動き、需要者が価格を決める。これではいつまで経っても農家の生活は安定しない。
もう一つが、農山村の位置づけです。
小さいときから農山村の環境の中で育ち、農業を実践してきた上杉氏にとって、それは常に頭の隅にあって、離れることのない疑問でした。
「農林業を産業という経済的視野だけで見ていいものだろうか。農地や林地が荒れたら降った雨はどうなる。崖は崩れ、川は洪水になるじゃないか。」というものです。
疑問や課題を敏感に感じ、その問題を解決していこうという積極的な探求心は、後に彼が政策通と言われる政治家に成長したことに繋がっているように私には思えました。

(コピーライター 北村多喜子 平成14年12月)